枠に収まる事

 

エンターテイメントを提供してくれる芸能人に対して、我々一般人が取る行動が度々問題になりはじめた昨今。(今に始まった事ではないが)

 

今一度、自分なりに何がどうあるべきなのかを考えてみた。

 

SNSが発達し、テレビ番組や映画、雑誌など様々な物の感想を匿名で多くの人と共有できる時代になった。良いと言う人、悪いと言う人。すごく様々な意見が飛びかう、そんな場所になっている。

 

そんな中に、""素人""ではあるがその分野における知識をたくさん持った人が、1000人中1人しか書けないような感想を書いている事がある。

もちろんそんな事が出来るようになるまで知識を蓄える事はすごいし、簡単なことではない。そして、その人は多くのフォロワーを集め、同じような事をしている人たちと意見を交わしたりしている。

 

僕はこの光景に筆舌に尽くしがたい違和感を覚えた。

 

インターネットが発達し、様々な情報を誰もが入手できる時代になった。そんな事を背景に、"プロの人たちにより近い知識を蓄えた素人"が出来上がっているのだ。

 

芸人のネタ解説や笑いの構成にケチをつける自称お笑いファン。

アイドルを型にはめて、恰も彼や彼女等の意図を全てわかっているかのような自論を展開する自称アイドルファン。

 

そんな特別な素人が、プロのライターの方が書くような内容に近い感想をSNSに投稿しているその光景に虫唾が走った。

 

誰にだって自由に事を行う権利が保障されている状況の中で、いくら自由だからと言って節度を持たない行動が許されて良いのだろうか?

 

僕はこれを、自由という正義の免罪符を掲げて行う一つの暴挙であると思う。

素人が素人の枠を超えて、でしゃばる真似をする事は決して称賛されるべきじゃない。それがいくら的を射ていて、共感を集めようが、そこまで踏み込むことは素人に許された行為ではないからだ。特に芸人やアイドルという今その瞬間の姿だけで価値を示そうとする人達に、裏側を推察するような真似はあってならないと思う。マジックのタネは知ってしまうと面白く見えないように、お笑い芸人のネタの構成まで知ろうとする事は強欲且つ傲慢以外の何でもない。

 

それに気が付くことなく、君たちが「面白い〜」としか思えないこの場面でも、僕は「このフリがあって、ここに繋がって、このオチになるから面白い」というところまでわかるよ。と言わんばかりにドヤ顔で(これは偏見)ツイートし、その行為が自分の好きな人の価値を下げている事に繋がるなんて知らずに、盲目な鶏達に共感のいいねを貰って、エクスタシーを感じていると思うと嫌悪感以外の感情がなくなる。(ここまでド偏見)

 

知識がある事はすごい事だが、それをひけらかす事が常に称賛されるべき事だと思ったら大間違いだという考えを捨てた自称評論家が、とにかく多い。

知識は適切な場面で適切に使われてこそ輝く物であって、乱用すれば不快感さえも与える事に繋がるんだという自覚を持って欲しい。

 

しかし、こういった行き過ぎた素人の行動こそがエンタメ業界を盛り上げる事に繋がるという矛盾を孕んでいる事も、無視できない。

野党と与党のように、どんな角度からであろうとナイフを突き付けようとするその姿勢に発破をかけられて云々という関係なのだろう。

 

誰もが定義することのできない概念はこの世にたくさんあるのだけれど、人間同士の関係性について考える場合は、両者の立場を踏まえてお互いに害を及ぼす事がない事が絶対条件だと思う。

 

自分たちが置かれた立場に、許された範囲内で行動するべきだと、僕は思う。

 

 

(この事自体が、自称評論家みたいな事してるなあなんて気が付いたけど、そこまで言ってしまうともう何もできなくなってしまうからいいや。でも、僕がここで言っていることもまた踏み込んではいけないところに踏み込んだ考えなのかもしれない)

 

まあ、あんまり考えすぎないことだ!

でも、嫌だなと思った事をこうして言語化してみるっていうのは、なかなか面白いんじゃないかなあ

 

 

 

 

 

 

 

 

相対的な自分の位置

 

久しぶりに中学時代の同級生や知り合いのSNSを漁り、何をしているのかを探ってみた。

 

不定期に同じことをやるけど、多分この行動に隠されている心理は「他人と自分の比較」をしたいという欲求だと思う。

 

小学生中学生高校生とそれぞれ、自分は周りに比べて総合的に優れている人間であったと思っている(おそらく自他共に)

無論、それは現在となっても同じ構図であって欲しいと願うプライドが自分にはある。

 

しかし、現在の自分には何も無い。

比較しようにも、たらればで自分を作り出すしか無い。「早稲田受かってたら」「その当時なら」「こいつがこうなら」

 

なんとも惨めな事に気がついた。

 

よくよく考えてみると自己嫌悪に陥りそうになるため、適当な所で止めておくけれども、現在俳優やその他自分を演出する形で行動を起こしている人たちに比べ、当時から自分は劣っていたかもしれないと考えることは今の自分に何も持たらさない。

 

この調子だと成人式に行っても辛い思いをするハメになりそうだなあ、この気持ちは自分にしかわからないだろうなあ、と取り越し苦労をする。

 

結婚したしてない、童貞かそうじゃないか、大学はどこだ、くだらんマウンティングの応酬が始まることは目に見えているし、そのマウンティングの頂点に立つのが自分であった、今までは。

 

それが出来ないとなったら、そこから逃げるしかない。逃げるしか自分に害を与えずに済む方法は無い。そうやって今まで逃げてきたツケをようやく体験する時が来たのかもしれない。

 

なんて想像をしたところで、今の自分の社会的立場を変えることは不可能。変えるために努力をすることは可能でも、今すぐにそれ自体を変えることは出来ない。

 

その場その場ではすごいやつに見えるかもしれないけど、遠目で見てみると自分の周りを自分で狭くしているなんともかわいそうな奴だとしか思えない気がしてならない

 

身近にあって初めて意識するもの

「死ぬ前に…」

 

最近、祖父と祖母がよく口にする言葉がある。

僕はどんな幸福感に包まれていようとも、どんな絶望感に襲われていようとも、常に死が怖い。今まで積み重ねてきた何かが崩れるのが怖いのかはわからないが、とにかく怖い。

 

そんな死が身近にやってきた。祖父は週に何回も通院し、祖母は死ぬ前にやりたい事を口にする。そんな会話を聞きながら、ペットの犬は尻尾を振って目を輝かせて、遊ぼうと誘ってくる。

 

死を意識しながらも現実逃避をするにはもってこいの構図だった。

 

死んだ後ってどうなるんだろうか、死ぬ瞬間ってどんな気分なんだろうか、 知りたい。

 

生きていく上で、理想の人間像を考えた。

「その人が必要としている言葉をかけてあげられる」そんな人間になりたいと思った。

 

そんな願望を超越して、死は全てを覆い尽くすのだろうか。それとももっと幸福なものなのだろうか。混沌にまみれた世界で生き続けることは決して幸せなんかではなく、死んだ後の世界の方が幸せなのだろうか。

 

この疑問が解決する日が来るといいな。

the very liberty

 

明後日から人生で二度目の大学入試が始まる。

 

去年よりも始まりが早く、期間が少し長くなった。当時の感覚をうろ覚えだが、去年より不安が大きい。神経が過敏になってる気もする。

あらゆるものが自分に向けられたメッセージなんじゃないかと、四六時中ヒントになるものが無いかを探して生きていてる、そんな感じの日々。非常に生きづらい。疲れる。

 

そして、また今年も直前に怠け始める自分がいた。やらなければならない事の存在を認知しているにもかかわらず、特に欲求が高くない事に時間を費やす。浪費する。そんな自分をどこか正当化しようとしてる自分がいる事に嫌気が差している。面白くない。

 

ここ最近、なにも考えずにボーッとしているという事が無くなった気がする。昔から無かったのかもしれないけど、他人から指摘された覚えもないし、むしろ他のことを考えているがために目の前の事を無視してしまう事があるくらい。良くも悪くも自分を変えられたそんな気がしている。少し面白い。

 

予め用意された人生におけるターニングポイントって、受験と就職くらいかなと思う。もちろんこの二つも万人に対してではないが、結婚やその他諸々の事よりも多くの人が経験する事だと思うからだ。

 

誰かのためにと思える事、形として幸せを感じられる事、自分の能力が高まる事、素晴らしいと思えるものに出会える事、全部ドメカノを読んで学んだ。ルイちゃんみたいなパートナーがいたら、僕もナツオみたいにクヨクヨしながらでも目の前のことから逃げずにバイタリティを持って生きていけるのかな、なんて思ってみた。そして、結婚もいいなと思った。経済的苦慮の心配ばかりしてるのはアホみたいだなって。

 

この世にはクソみたいな人間がいっぱいいるけど、必ずしもそんな人間と付き合っていかないといけないわけじゃないんだし、誰かにとってはクソでも僕にとってはクソじゃないかもしれない。クソクソうるさいけど、性悪説だ!って閉じ籠もっちゃうよりはいろんな事を楽しめると思うんだよね。現にイイ人達にたくさん出会えてるし。そんな人達になにかプラスの影響を与えられるような人間になれるといいなぁ。

 

I wanna be a person having anything good influences on my favorite others .

達成感

 

今日は初めて6コマ約10時間のバイトをした。

決して辛いと感じなかった。やっぱり自分は人と話すことが好きなんだと改めて実感した。

 

そして、帰宅した後の疲労感やらなんやらが何故だか心地よい。学校に通う事がなかった一年間、生ける屍と化していた身体に久しぶりに刺激が走ったような気がする。

 

人間、労働が必要ってあながち間違えではないのかなと思った。

 

早稲田社学の受験をしてから300日が経った。

僕の人生はあそこで止まったままな気がするし、あそこが頂上なのかなとも考えたりする。

 

美味しいものを食べても、好きな漫画を読んでも、YouTubeを見てもゲームをしてもなにをしても心から幸せだと感じる事が出来なくなった。そんな期間でもある。常に受験のことを考え、受験の先にあるはずの未来を考え、漠然とした不安に襲われる。

 

幸せが何かを考えた先には必ず不安に襲われるという不幸が待ってる。そんな300日だった。

何をもって不幸としているのかはわからないが、あの時の自分の思考は完全に負のオーラを纏っている。何かをやり遂げている訳でもなく、目に見えてわかる成果があるわけでもない。それが一番辛いのかもしれない。

 

僕にとっての本質的な幸福は、自分が何かの能力を高める事が出来ていると感じられる事なのだろう。毎日が淡々と過ぎていく中で得られるものが多いはずもなく、登り坂がなければ下り坂もない。僕にとっての刺激はやはり人との出会いを介した会話なのだろうと切に思わされる。しかもその相手が自分と同等かそれ以上の知識を持ち、センスに溢れた人間であるという事が条件だ。なんて傲慢なのだろう、

 

 

あゝ楽になりたい

オードリーが好き

 

最近、約束された将来が欲しい。とありきたりなことを考える。いや、ありきたりであってありきたりではないのかもしれない。マイノリティーの方。

 

家が先祖代々受け継がれてきた商いをしているとかそういう確実な何かではなく、昨今謳われることの多い、年金や少子化、雇用問題などなど自分を取り巻く社会の中身についてのこと。

 

桜を見る会の反社会勢力関与問題に関しての、安倍総理の下した閣議決定。中学社会で公民と歴史で第二次世界大戦の事について学んだ人間であれば誰もが「独裁」と考えるのではないだろうか。違うことを考える人ももちろんいるとは思うけれど、100人に聞いたら15人は僕と同じ考えの人がいる自信がある。

 

つまり、安倍内閣が指導する日本には約束された将来なんてものはないと感じたということ。

 

今日、テレビを見たらまず最初にこのニュースが目に入りました。今日は一日苦しかったです。なにをどうしても辛さに打ち勝つ幸せがある将来について考えることが出来ないのです。

現状を変える辛さがこの先待っているのかと思うと、目の前が真っ暗になります。ポケモンでいうところのリタイアです。

「若者は政治に関心を持て」関心を持った先には辛い世界が広がることだってあるんですよ。と。

 

今日も癒しを求めて日向坂で会いましょうを見ること、死んでもやめません。